ロバのパンとオリエンタルカレー

私、昭和29年の名古屋は菊井町の生まれです。菊井町といえばお菓子メーカーや食材屋が路地にひしめく下町。
隣は全国有数のお菓子問屋街であった明道町。名古屋の「3丁目の夕日」の世界に幼少期を生きていました。
当時は八百屋さん、豆腐屋さん、タバコ屋さん、パン屋さん、米屋さん、魚屋さん、肉屋さん、酒屋さんが町内にあり、我が家も駄菓子づくりが家業でした。
歩いていける場所に公設市場というものもありました。いわば、食と共に生きていた町です。

毎日、夕暮れまで遊び、お腹が空きました。

ロバのパン屋が来るとみんなで駆け寄り蒸しパンを見ました。
「見ました」というのはどうも買って食べた覚えがないためです。
ただ、蒸しパンは親が作ってくれたのを食べたことをよく覚えています。

生家がお菓子屋だったため、蒸しパンの材料は家のどこにでもあったのでしょう。
親はロバパンも見て一口食べればつくれてしまうので、わざわざ買ってくれなかったのかもしれません。
でも、私は蒸しパンを食べる機会があるたびに、なぜか「ロバのパン」のほうを思い出します。

当時はオリエンタルカレーというカレーの宣伝カーもよく来ました。
大人たちも子どもたちも「オーリエンタルカレエエ・・」という歌が聞こえると音がするほうに走り出します。
カレーの実演販売でカレーにありつけるからでした。そのためかどうか、カレーは今でも大好物です。

当時、国民の栄養を改善するために、キッチンカーというのがあったのだそうです。
日本の健康増進プロジェクトの草創期、栄養士の大先輩方がキッチンカーに乗り、全国をくまなく回って料理のつくりかたを実演しました。
この運動は、ごぱんと味噌汁と漬物だけの食事の改善に大いに役立ったそうです。
栄養士の人たちに教えてもらえた新しい家庭料理は、わが国の食生活を一変させました。
世界一の長寿国、世界の健康料理日本食はそうした街角や村役場の食体験の積み重ねから始まったのです。

幼少期に食べたものは生活の原風景や体験と共におそろしく記憶に残ります。
今日、わんぱくランチのおやつ献立の試食で食べた「とうもろこしの蒸しパン」で、私は昭和にワープしてしまいました。